#003|娘たちから、逆算する
ビジョンを、判断基準にするということ
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事業計画の、いちばん上に、何を置くか。
ふつうは、売上の目標とか、市場の規模とか、そういう数字を置くのだと思う。
僕も、昔はそうしていた。
でも今回は、置かなかった。
僕の計画書の、いちばん上にあるのは、こういう一行である。
娘たちが生きていく未来が、ワクワクする、楽しい世界になっていること。
これを人に話すと、たいてい、ふわっとした反応が返ってくる。
いい話ですね、でも、ちょっと夢みたいですね、って。
その気持ちは、よく分かる。
僕自身、これを計画書のトップに書くとき、少し迷ったから。
こんな抽象的なものを、事業計画の頭に置いていいのか、って。
でも、僕にとって、これは夢じゃない。
毎日使う、道具なのである。
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前に事業をやっていた頃の話をする。
あのとき、僕がいちばん上に置いていたのは、数字だった。
月にいくら、年にいくら。そこを目指して、必死に走っていた。
数字は、最初は分かりやすくて、いい羅針盤に見える。
今月はここまで行った、来月はここまで、と、進んでいる実感もある。
でも、追いかけているうちに、だんだん、何のためにやってるのか、分からなくなっていった。
気づいたら、いちばん守りたかったはずのものを、後回しにしていた。
家族との時間も、自分の心の余裕も、ぜーんぶ「事業が軌道に乗ったら」と言って、先送りにしていた。
軌道に乗ったら。その「乗ったら」は、たぶん、永遠に来なかった。
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数字は、追いかけると、逃げる。
そして、追いかけている間に、足元の大事なものが、こぼれていく。
だから今回は、順番を逆にした。
いちばん上に、ビジョンを置く。そこから下に向かって、計画を組んでいく。
具体的には、迷ったとき、いつもこの一行に戻るようにしている。
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この選択は、娘たちの未来に、近づくのか。
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それとも、今この瞬間の、娘たちとの時間を削ってまで、やることなのか。
そう問うと、不思議と、答えが出る。
やらなくていいことが、勝手に削れていくのである。
たとえば、僕はカレンダーに、先に家族の時間を書き込んでいる。
公園に行く時間、一緒にご飯を食べる時間。仕事の予定より、先に、ブロックしてしまう。
月に二回は、パソコンを開かない日も、決めている。
これは、我慢して時間を作っているんじゃない。
ビジョンから逆算したら、そうなった、というだけである。
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昔の僕なら、こう考えたと思う。
今、娘との時間を少し削ってでも、事業を前に進めれば、将来もっといい暮らしをさせてやれる、と。
将来のために、今を犠牲にする。それが、責任のある父親だと思っていた。
でも、今は、そう思わない。
今を犠牲にして手に入れた未来で、はたして娘たちは、ワクワクするんだろうか。
たぶん、しない。
ワクワクする未来は、ワクワクする今の、延長線上にしかないのだと思う。
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先週も、こんなことがあった。
原稿を書いていたら、下の娘が、折り紙を持ってきて、ねえ、パパこれ見て〜、と言った。
昔の僕なら、たぶん、あとでね、と言っていた。手元のキリのいいところまで、やってしまいたいから。
でも今は、パソコンを閉じる。目を見てお話を聴く。
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たいしたことじゃない。ほんの数分の話だ。でも、この小さな選択の積み重ねが、たぶん、ビジョンそのものなんだと思う。
壁に貼った言葉じゃなくて、こういう、折り紙を見るか見ないか、みたいなところに、ビジョンは出る。
ビジョンって、飾りじゃないのだと思う。
壁に貼って、たまに眺めて、いい言葉だなあと思うもの。そういうものだと、ずっと思っていた。
でも、違った。
ビジョンは、毎日の判断で、実際に手を動かして使う、いちばん手前の道具なのである。
しかも、抽象的でいい。
むしろ、抽象的だからこそ、いろんな場面で使える。
具体的な数字の目標は、一つの場面でしか使えない。
でも、娘たちの未来から逆算する、という問いは、仕事の判断にも、時間の使い方にも、付き合う人を選ぶときにも、ぜんぶに効く。
抽象的なビジョンは、弱いんじゃなくて、汎用性が高い。
そう考えるようになってから、僕は、このふわっとした一行を、堂々と計画書のトップに置けるようになった。
次回は、そのビジョンに向かって、僕が、どこに立つと決めたかの話をする。
誰も立っていない、谷間みたいな場所の話である。
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